博士論文について

小保方の博士論文は国会図書館にある草稿を製本したものであったのだが、博士号がとりけされちゃったのでもはやこれは博士論文ではなくなったのだ。ゴミになってしまったのだ。そもそも、この草稿が論文審査に提出され、修正要求があったものの、無視して草稿を、たった2部製本しただけなのだ。1部は大学に1部は国会図書館にある。自分のはない。凄まじい人ですな。

博士論文はどんなのだというのが、以下の記述だ。

博士論文は基本的には博士論文審査を通り、必要な修正等を行って製本した論文だ。 これがないと、博士ではありえないわけだ。 博士号を与えるか否かは、大学の権限で、その論文が雑誌に掲載されていることとは本来関係がない。審査の主体は大学なんだから、どこぞの雑誌に掲載されていようがいるまいかは関係がない。 しかし、それでは審査委員会に通ったら公表せずにおしまい、ということになる。昔は博士論文がほとんど非公開に近かったので、外部にきちんと公開=雑誌に投稿しなさいということになったのだ。

博士論文そのままでは、どこの雑誌も認めないので、雑誌にふさわしく短くした論文が投稿されるわけだ。博士論文の序文なんてのは、それこそギリシャ時代からの歴史が書いてあったりするので、雑誌にはふさわしくない。ネガティーブ・データだって博士論文は自由に記載していいのだが、雑誌では不要だ。論文の長さ制限があるから、どんどん削っていくわけだ。博士号の条件としてこの外部発表しますよという一文を書く必要がある・あったのだ。

必ずしもトップレベルの雑誌が掲載してくれるわけではないので、それぞれの大学には紀要というのがあって、これだったら、内々だからなんとか掲載してくれる。つまり博士論文があってそのあと雑誌論文があるというのが昔だったのだ。 京都大学の博士号取り消し要件に公表の不履行とあるのはこのことだ。

ところが、最近は、博士論文提出の条件に、査読付き国際雑誌にファーストオーサー(あるいはそれ相当)の論文が1つはないと申請資格がないというところが増えてきた。研究のテンポが早くなり、在学中に論文の1つや2つがあるのが珍しくないのだ。

早稲田は2つなければいけない。2つというのは、まともに考えるとかなり厳しい。学生が3年(医学部では4年、以下略)で論文を作成することすら難しいわけで、それが2つというのはハードルが高すぎると思う。とすると国際雑誌=英語雑誌であればいいわけで、某Tissueなんちゃらみたいな雑誌でもいいことになっちゃうわけだ。ハードルを高くすると、本来の目的ではなくその抜け道ができてくるのだ。

さて、博士申請には雑誌に掲載された論文を必要とするということになったら、博士論文はその掲載した内容を含むことになるのが普通だ。3年間に、博士論文と全く関係のない論文を作ることは普通の学生には無理でしょ。雑誌掲載論文が単著であることは、現在はほとんどありえない。研究資金も場所も機械も指導教員のものだから、ラスト・オーサーは指導教員=親分になるでしょ。共著だから博士論文に雑誌に掲載した内容を使っていいかと全ての著者の許可が必要になる。同じレベルの博士課程の学生が共著者になって、そいつもこの論文を使って博士論文を作成するというようなことがない限り、大抵、共著者はすでに博士号を持っているから承諾は容易に得られる。あらかじめ、博士論文にするという前提で実験を行っているからね。

この場合、雑誌に掲載したのと同じ写真、グラフが博士論文に使われる可能性が高いのだが、博士論文はなにやら公開に制限がありそうでなさそうで、著作権についてはうやむやになっている。雑誌掲載のときは、大抵著作権は雑誌社にあるという書類にサインしないと掲載されないので、著作権は出版社にあることが多い。博士論文はPDFで不特定多数が読むことができるようになっている現在、非常にまずい状況だと思うけどどうなんだろ。

それとは別に、この雑誌掲載された論文がなければいけない、また雑誌掲載と同じような内容の論文でもよいということから、その雑誌の論文の別刷が博士論文そのもにになっちゃっている場合が、かなりある。特に臨床医学分野で多いのではないかと思う。こういう論文が博士課程審査にでてくると、これを却下することは非常にむずかしいことになる。なんせ、その分野の複数の専門家が査読してOKとなった論文を、専門分野ではない主査・副査が審査するわけで、否定するのは非常に難しい。

こうなっちゃうと、博士号を認めるのは大学でなく、雑誌のレフリー(査読者)、エディタになっちゃうわけだ。 これはあんまりだ。雑誌に投稿した論文は博士申請した大学院学生が書いたとは思えないのに博士論文としちゃうことになる。

というわけで、このような雑誌掲載論文そのものを、博士論文とするのはおかしいので、博士論文は、dissertation(書き下ろし)形式でないとだめとなりつつあるのではないだろうか。こうすると医学部では臨床の先生が文句を言うのだ。指導する時間がないからできないという。なんか本末転倒だ。だから妥協して、せめて序の部分は書き下ろしにしなさい。方法以下は雑誌と同じでもいいよということになる。 だから、博士論文の審査では、まず、We となっているところが I に修正されるのだ。博士論文なんだからな。

(続く)

「博士論文について」への2件のフィードバック

  1.  実際に必要なのは科学誌に掲載されることではなく、査読者の批判に対して科学者としてきちんと対応できたかどうかではないですか、博士号を「一人前の科学者」としての認証状とするならば。
     査読に通っても、ひと月違いで他誌に同様の研究結果を公表されて、掲載がドタキャンになることもある。
     すると、大学が審査すべきは、掲載された字数制限された論文ではなく、査読者の批判への対応となるべきではないでしょうか?
     きちんと一人前の科学者として対応できているならば、たとえ商業誌に掲載されなくとも学位を与えればよいし、掲載されたとしてもきちんと対応できていなければ(共著者のビッグネームに掲載誌がビビってしまった場合など)学位を与えるべきではない、と思います。

  2. コメントありがとうございます。
    全く同感です。雑誌に掲載してある・するというのが博士の資格というのは、大学の指導・審査が十分でないということで大学として恥ずかしいことです。しかし現実として、査読有り雑誌に掲載されない内容の博士論文があったりしたし、論文の価値を学術雑誌掲載の有無を参考しないとわからない審査員だったりするわけですね。口頭試問でまともに答えられない申請者には学位を与えるべきではないですが、学内の政治力できまったりしているんですよね。

    何年か前、雑誌に掲載された論文そのものを博士論文として申請するのが許されている組織で、その分野では一流と思われる雑誌に掲載された論文で申請しできた学生の審査員になったことがあります。その論文で、論文のストーリとして、意味のないパラグラフがあったので、これは何?意味がないから削除すべきでは?あるいは、この部分のデータがたりない、たとえネガティーブなデータでも掲載したら?と質問したら、その通りですが、そのパラグラフは雑誌査読者がコメントして書けといったので入れた、ネガティーブデータは削除という査読者の意見で削除し、その結果、雑誌にacceptされたという返事だったのね。

    書き直しにできなかったです。dissertation形式でしか受け付けないと組織の制度はその後変わりました。

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